当然なんだけど、みんな確かな未来を知りたがっている。
そういう私も、その気持ちは分かる。
営業マンとして、各企業を回っていた時に、
「今月いくら売れるかわかったらいいのにな、出来るならささっと、ノルマ分売れないかなぁ」
なんて、思って毎日を過ごしていたものだ。
その瞬間だけ、よい結果を出すことは、多分そんなに難しくない。
営業でいうなら、当たり障りのない、良いことをその場しのぎでお客さんに伝えて、それで、その場で契約をしてしまえばいい。
でも…それじゃダメだった。
次の仕事が来ることは少なくなったし、会社の製造の人に負荷をかけたこともあった。
経験的なものだけど、「その場だけいい」ってのはダメだった。「もっと先のこと」を考えないと、ということが沢山あった。
みんな、不安に苛まれて生きている。最初の確かな未来を知りたいということにも関連するのだけど、今が、そして、明日が幸せになれるかが怖いんだと思う。
そこで、近い未来…そして…今…が楽な選択を選んでしまう。
そうなってしまうのはわかる。辛い時には、辛いんだもの。
今やってるスピリチュアルなことをここで考えてみる。
そういう意味で、スピリチュアルは心の支えになりうる。上手くいけば、未来だって見ることができるのであろう。
「明日、あなたは幸せですよ」
第三者に言われたら…保障されたら。
どんだけ心が楽なことか。
でも、明日がダメな時もある。その時に、ダメだから、違うことをすれば少しは楽になる、と言ってくれるのなら、それはそれでまた、心は楽になると思う。
つまり「明日が少しでもよいものになるなら、人はちょっとだけ、楽になる」のではないのかなって。
今回書いた本にも載せたことだけど、そんな中で「無条件に幸せになる」ということを繰り返してるスピリチュアルな人は、「明日をよりよくしよう」という人の力を弱めていくのだと思う。
繰り返しになるけど、いいんだよ、明日が悪くても。それを変える手立てがあるなら。そう思ってる人は案外いるように思われる。
それを「これをすれば楽になる」といって、現状を変えるのではなく、「安直な楽」を売りつけるのは、よくないと思う。
「今が楽」でも、それが「未来」に続かなきゃ意味がない。また辛くなった時に、「楽にする何か」をスピリチュアルから受けなきゃいけなくなるのは、ある意味「麻薬」を苦しみから解きはなつ為に与えてるのと変わらないと思う。
まるで、それはその場しのぎで売り続ける営業マンみたいなものだ。そして、その場をしのげなくなったら…営業マンでいう、取り繕って売る相手がいなくなったら…また不安に苛まれることになる。
それじゃ、ダメなんじゃないかな。
いや、そんな毎日を過ごすのも1つの手かもしれない。けど、そんなことを勧めてる人達が「相手の幸せを願ってます」だなんて、言っちゃいけない気がする。
「瞬間の幸せ」を餌に「永続的な不安」に苛まれるようなことはしてはダメだ。
日々、苛まれることのある不安に対する、処理の仕方を伝えるのが「スピリチュアル」なんだと私は思う。
「今」最善の結果を得られなくても、「少しずつ最善に近づく日々」を過ごして欲しい。その為には努力することだって必要だ。我慢することだって、必要だ。
だが、その先に。「笑顔」を得られること。そして仮にまた不安が攻めてくることがあっても、慌てずに乗り越えられて、新たな「笑顔」を目指せるようになること。
そういうことを伝える為に。
私は、皆んなの横にいたい。
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