声を張り上げ「悲しみの果て」に辿り着いて欲しいと歌う

私が「伝える側」ではなく、「感じる側」として日常を記す
それが、カテゴリー:「すいこう いん まいまいんど」


「エレファントカシマシ」というバンドの、「悲しみの果て」という曲を知っているだろうか。
この曲の制作の背景について、ボーカルの宮本さんが一度テレビで「この曲に込めた思い」というの語っていた姿を鮮明に覚えている。

所属していたレコード会社を解雇された後、あてもなくさまよう中で「これが駄目だったらもう諦めよう」と背水の陣で「悲しみの果て」を出した…ということをどこかの番組で語っていた。

明日を望めない人へ

以前から人の悩みを聞いて、その悩みに対して一緒に考えてね。
そんな毎日を過ごしているのだけど…聞く「悩み」というか、相談してくれる人というのが前と比べるとちょっと変わってきたな、と最近感じたりする。

なんだろう、前まで相談をしてきてくれた人というのは、例えば「迷惑をかけてくる相手」に対して「激しい怒り」とか、「傷つけられた自分の悲しみ」を表現するエネルギーというものを持っていたのよね。
しかし、最近相談してくれる人というのは何か…人生を諦めていたりだとか、追い詰められた状態というものに希望を持てなかったりだとか…つまりは、生きるエネルギーが失われてる人が多いな、と思うの。

「相手のことを理解しようとするのだけれども、うまく理解ができなくて相手の事が分からない」
という話をしてくれたりとか。
「繰り返し傷つけられる自分の心に対してどのように受け止めて生きていけばいいのか分からない」
という話をしてくれる人がたくさんいて。

そういった人たちに…ちょっとでも伝わって欲しいなと思っていることがあってさ。

それは人生というものは「希望」を持って、そして「人の為に優しく生きて」いればきっと幸せになれる、ということ。
つらい時があろうとも、人のことを傷つけずにつらい状況に向き合って、どうにか人のためになろう!
と、思っている人は微笑みのあふれる日々が来ると私は信じている。

何と言うか、まあ、自分だって正直つらいとき、というのはあるよ。
それでも「この世界」っていうものは「少しでも他人のためにあれる人」が、「最後には笑うものだ」と信じて毎日私も過ごしている。
「だから、みんなもそう思って欲しい」と言いたいんじゃなくて、そうやって「傷つきながらも生きている人は幸せになるべきなんだ」と思っている人がいることを、ちょっとでも知って欲しいなって。

「生きる気力を失くしかけている人」に対して、これ以上頑張れとは言わないよ。
もう十分に頑張っているのだから。
せめて、刻まれる一秒一秒の中で、自分が「その次の一秒を生きたい、進みたい」と思えるようになってほしい。
そのために、送れる言葉があるならたくさん送るから。

「悲しみの果て」

「悲しみの果ては、すばらしい日々を送っていこうぜ」

最近、「悲しみの果て」を胸の中で口ずさんだり実際に大きな声で歌ったりしている。
それは何か「見えない未来」に不安になっている、多くの人の「心」に届けばいいなという…祈りに似ているかもしれないなって、思う。

人生というものを真っ正面から捉え続けなくてもいいと思う。
疲れたなら、ただ「生きること」だけに集中してもいいと思う。

みんな大人になって「働いている人」という肩書きや、「子供を育てる人」という肩書きや、「家族の中での立ち位置」といった「自分を表す言葉」というものを肩に背負って…そうやって生きているのよね。

だけれども、そうある以前にみんなは「一人の人」で、そして自分の人生を歩んでいるわけで。

近くの人に裏切られたり、一緒に時間を過ごしている人の気持ちがわからなくて毎日のように傷ついている日々を過ごしているのなら。
まずはその肩に背負っている立場だとか責任というものを一度降ろして、「ただ生きても」いいんじゃないかな。

そうした「立場」や「責任」っていったものは、捨てなきゃいいだけ。
また自分が拾える時に拾えばいいよ。

つらいときは、誰かに弱音を吐いたっていいじゃない。
他人に迷惑をかけることがあったとしても自分が生きるためだったらば、頼ったり助けを求めたっていいんじゃない。

全ては「最後に」笑うために。
悲しみの果てにたどり着くために。
綺麗な生き方ではなくても、人から「強いね」と言われることのないような生き方であっても、それでいいよ。
いいと思う。

みんなでこの悲しみを乗り越えていこう。必ず笑える未来のために。 

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