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こんばんは、彗光でございます。
今日は働いている人が一度は考えたことがあるであろう話題、「今従事している仕事を辞めようと思うこと」について書いていきたいと思います。
さて、「スピリチュアル目線」で仕事を考えたときに、よく引き合いに出される言葉があります。それは「給料は我慢料」という言葉です。
この言葉というのは、
「仕事というのは決して楽しいだけのものではない。作業として行うことも難しいものが多いし、人との軋轢の中で時間を過ごすことも仕事のうちである」
という考えからきており、そういった「自分の思い通りにならないことをこなすこと、全てを含めて給料の対象になる」という考え方です。
この考え方というのは、美輪明宏さんが良くお話になっていたことだと思いますが、私も大まかな考え方として同じ考えです。
しかし、このままだと「給料は我慢料」という言葉だけが先走りをしてしまいのではないか、という恐れも感じています。
今日はスピリチュアルな側面から考えた「仕事」について、私なりにまとめていきたいと思います。
基本的に仕事というのは、辛いものである。
まず、仕事というものは基本的には「辛いもの」だと私は考えています。
何故なら、「仕事」というのは「他人のやりたくないこと」をすることによって「給料」を得る行為だからです。
だから、「仕事が大変だ」と感じる心というのは、至極全うだと思います。
他人の目線で見たときに「楽しそう」と感じる仕事にも、必ずどこか「大変な側面」があります。
例えば、今流行りの「ユーチューバー」でについてでも、「Youtube」という自分がコントロールできない支払元の下で働く苦労を伴っています。
「Youtubeがダメ」、と言ったことを動画にすることはできませんし、急にサービスを終了してしまうかもしれません。
また、人の趣味嗜好というものは日によって変わるものなので、今儲けることができている人も、数か月後には視聴者数激減によりお金が入らない、という可能性もあるのです。
そういったプレッシャーの中、「動画編集」や「人に好かれるような話題探し」、「機材の購入」など自分の労力やお金をかけながら、維持をする仕事が「ユーチューバー」なのです。
こうやって聞くと「好きを仕事にする」というキャッチコピーで紹介される「ユーチューバー」も、非常に大変な仕事だと思いませんか。
今回は「ユーチューバー」を例に挙げましたが、どんな仕事であれ「(他の仕事に比べて)楽な面」と「大変な面がある」訳です。
その中で「楽をして稼げる仕事はないか」という思いで仕事を探し、良く調べもせず従事した後も努力をしない人に対して送った言葉が「給料は我慢料である」という言葉だと思います。
「給料は我慢料である。苦労せずにお金を得ることなどできないし、どの仕事も大変な部分をがあるということを忘れてはならない」
これが、言葉の示す意味なのだと私は思います。
スピリチュアルな視点でこのことを考えてみると、まさに「正負の法則」や「代償の法則」が当てはまるのではないかと思います。
これは「自分が得るものと与えるものは一対で、バランスが取れている」という考え方なのですが「苦労や努力、労力をかけることで、はじめて給与を得ることができる」ということに当てはまる訳です。
給与分の我慢を超えるとき
しかし、上記の「正負の法則」や「代償の法則」の話をする中で、仕事について“こう”も考えらえると思います。
それは、「給与分以上に、仕事をする上での我慢をする必要はない」ということです。
「仕事をする上での我慢」というのは、文字通り「仕事に関連することへの我慢」になります。
ですので、「給料は我慢料」と言われるからといって、仕事以外の我慢をする必要はないのです。
例えば、「仕事が残業続きで睡眠不足。残業代も支払われない」という状況にあるとしましょう。
この「睡眠不足」というのは、「仕事」ではなくその方が「生きる上で必要なこと」を削っている訳です。
どれだけ「睡眠不足」になっても給与が増えるわけでもありませんし、最終的には自分が「仕事ではない部分」で体調不良になり病院代など損をすることになるだけで、「必死に耐えても自分が損するだけ」だと思います。
他にも、
- 「飲みの席で、お酒を飲むことを強制する」
- 「上司からセクハラを受ける」
- 「法律違反となるような行動を協力させる」
といったようなことは、仕事とは関係ないものです。
こういったことを「我慢」したとしても、「給与」としての見返りは受けられないものだと思います。
このようなことが重なる時には、「辞めること」を考えても私はいいのではないかと思います。
何でも「我慢が足りない」という言葉で片づけられるものではないと思うのです。
難しい「仕事の我慢」と「仕事以外の我慢」の境目
しかしながら、「仕事の我慢」と「仕事以外の我慢」の境目というものは、時に場合によっては判断が難しいものでもあります。
例えば「性格の合わない上司の元で働くこと」というのは、一見「性格」という業務に関係ないもののように感じられますが、会社から「働く環境」を指定されている訳ですので「仕事の一環」と見ることもできるでしょう。
でも、「性格の不一致」が「いじめ」に発展した場合は、これは「仕事外」になります。
何故なら、「いじめ」というものは「仕事上必要のないもの」だからです。
このように、「仕事上で我慢すべきか、しなくてもいいものなのか」というものは、状態の変化によって変わるもので、一概に「どうすべきだ」という解決策を出せないものだったりします。
こういった中で「仕事を辞めるべきかどうか」を判断するための方法を私から一つ、お伝えしましょう。
それは「その我慢をすることで、あなたの『仕事以外の側面』が失われるかどうか」を判断するというものです。
例えば、「いつも飲み会に強引に連れていく上司」がいるとして、日々その飲み会を我慢しているとしましょう。
その我慢によって、飲み代が毎日あなたの財布から減っているとします。
これはもう、「仕事以外の側面」であるあなたの財産が失われていることになる訳ですね。
こういったケースで会社の指導を得られない時には、私は仕事を変える準備をしてもいいと思います。
「睡眠不足」についても、ちょっと眠い程度ならば耐えるべき瞬間もあるでしょうが、それが病気になるのであればあなたの「健康」を失っていると言えるわけです。
「セクハラ」においては「あなたの身の安全」を失っている訳ですし、「社会規範に背く」場合には「あなたの社会性」を失う訳ですね。
とにかく「給料は我慢料」であっていると思いますが、それ以上にあなたの「何か」を失うのであれば、それは「必要以上に損をしている」ことになると思います。
その場合は、「正負の法則」や「代償の法則」によって、今まであなたが失ってきたものへの対価として「新天地」を見えない存在から送られるかもしれません。
おわりに
今日は「仕事を辞めるべきかどうか」という悩みに陥った時の考え方について書きました。
仕事の環境というのは、時代の変遷とともに変わっていきます。
昔は「メール」や「スマートフォン」がなかったために、「迅速な対応」というものが今以上に必要ではなかったものでした。
しかし今は、「出来るだけ早い対応」が必要とされ、その分だけ一日の仕事量は増え、さらにストレスが掛かりやすい環境になっています。
どれだけ技術が発展しても、そのツールを用いて働く人間のキャパシティは変わりません。
その中で、「仕事の我慢」と「仕事外の我慢」の境目にあるような苦労が、今は昔以上に「仕事外での損失」を生むようになってきていると私は感じています。
とにかく、生きることが大切です。
あなたが仕事をしている上で、「給与以外の何か」を失っていると感じたときには、自分を守るために新しい職場を探すようにするのが、今大切なのではないかと感じたのでした。
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