私が「伝える側」ではなく、「感じる側」として日常を記す
それが、カテゴリー:「すいこう いん まいまいんど」
最近、この世のことについて考えることが増えました。
ここで指す「この世」とは、主に今の日本のことを指しています。
テレビではコロナウイルスの話でもちきりで、暗い話題が増えていますが、それよりも私はそういった「表面的な元凶」よりも、“この世の人の心”について気になっていまして。
大きな病原体が流行っても、きっと発達した医学が対処方法を突き止め、少し経てば回復に向かっていくでしょう。でも、人の心は「特効薬」がない。
トイレットペーパーやマスクを買い占め、人に高く売ろうとする心は直ぐにはならないということです。
もちろん、こういった話は「今」の日本に限ったことではないことは知っています。かつてのオイルショックでも同じようなことがあったと、聞いたことはあります。
ただ、オイルショックのときも買占め、高く売ることをこんなにも行っていたのかなと。ネット環境が完備されたこともあり、より一個人が買い込んだものを他人に売り易くなった、という背景があったのは分かります。が、それでも転売をする人が多すぎなのではないかと感じました。
つまりは、「この世の人たちは少しずつ他人を思いやる気持ちを失ってきているのかな」と少し感じております。でも、私が知らないだけの可能性もあるので、最近時間がある時は、過去について調べています。
上記のような「他人を思いやる気持ちが薄れている事例」が増えたと私は感じておりますが、もしかして「時代毎に他人を思えない人」というのは存在しているという可能性もあるので、過去をちょっとずつ見ている訳です。
つまりは、「もしかして、いつの時代も人のことを思えない人というのは一定量いて、それが何かのきっかけで露呈した時に“他人を思えない人が増えている”と誤認してしまっている」ということです。
と、まあ。難しく書きましたが。
もし「他人を思えない人」がいつの時代も一定数いるのであれば、私は人に伝えるメッセージを変えないといけないかなと思っております。
今まで私は、技術が進むことによって「目に見えるもの」が求められるようになり、「目に見えないもの」が廃れていったため、他人を思う気持ちや、信じる心が失われてきたのでないかと思っておりました。
でも、もしそういった技術革新など関係なく。
「いつも、他人を思えない人はどの時代も一定数いる」のであれば、とにかく、人の心を大切にしている人を守ることを行わなければいけないと思うのです。
何故かと言えば、特に理由なく「他人を思えない人」がいるのであるのなら、その方々に働きかけてもあまり効果がないから。そして、そういった「他人を思えない人」が一定数いる限り、優しい人はその脅威にさらされることになるから。
そうすると、私の活動が「人が忘れた、他人を思う力を想起させること」ではなく「他人を思う力を持つ人を守る」ことに変わっていくのではないかなと最近感じています。
もっと簡単にいうと「人を変える・呼びかける」ことから「人を守る・助ける」にシフトしていかないといけないのかなと。ちょっと思ったのでした。
中々に難しいこと、なんですけどね。
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