私が「伝える側」ではなく、「感じる側」として日常を記す
それが、カテゴリー:「すいこう いん まいまいんど」
ここ最近、ずっと「トーシャ・シルバーさん」の本を読んでいる。
今は「私を変えて下さい」っていう本を特に読み耽っていて…その中でたくさんの大切なことを思い出させてもらってる。
いわゆるスピリチュアルに傾倒すると、現実離れして地に足つかない人になる…と考えている人が結構いる。
でも、実際のスピリチュアルってものは違う。本当に生活の横にある。
どの人も経験したことがあるものを、ただ「スピリチュアル」と呼んでいるだけなのだ。
それはなんていうか…すごく崇高なものではなくて。いろんな奇跡が「なぜ起こるか」分からないから「見えないもの」としているだけなんだと思う。
例えば、「今日は唐揚げ食べたいな〜、でも揚げ物を家で作るのめんどくさいよな〜」と思ってるときに、半額の惣菜の唐揚げを見つけるみたいなものや。
「あ、なんか…九州が呼んでいる」とふと思ったときに、LCCのセールアナウンスのメールが入ってくるみたいな。
そんな、誰だって一度は経験したことがある、この世界の…仕組み?不思議?みたいなものを追求したのが「スピリチュアル」なのだと思う。
今、そのトーシャさんの本を読んでいてそういった…忘れかけていた「日常の不思議」をたくさん思い出している。
恐れとか不安とか。どう幸せを噛み締めるかとか。
でも多分、きっと…トーシャさんの本を今ゆっくり読むというのも、きっと「誰かが仕組んだ偶然のように見える必然なんだ」と思う。
そう考えると、これから何が起こるのかな?とワクワクすることはあっても、見えない未来を恐れることはきっと、ない。
いろんなことはあったけど、「今生きている」という一番の証拠があって。
その証拠が、これからの未来も同じように不思議まみれにしてくれて…先がないようなことも乗り越えていけるだろう、みたいな希望をくれるから。
「私の人生は誰かによって作られたものだ」とまでは言わないけど。
私の毎日は、きっと沢山の見えない存在や、見える存在に見守られながら続いているのだと思う。
要するに。
どんなときだって、幸せになる道は残ってて存在してるってこと。
なんかね、曖昧な表現ばかりになったけど、そんなことを最近噛み締めているんだ。
大丈夫、間違っていない。
過去があって、今があるってことは、未来もあるってことだから。
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