僕ら日本人が過去に捨ててきたことと、その中で守らないといけないこと

すいこう いん まい まいんど

私が「伝える側」ではなく、「感じる側」として日常を記す
それが、カテゴリー:「すいこう いん まいまいんど」

こんばんは、彗光でございます。また前回のブログからちょっと時間を空けてしまいました。
言い訳なのですが、実は空いた時間で最近長期で考えている「他人を傷つける人」の存在や、その中で「どうやって生きていくか」について書籍などを調べながら考えをまとめておりました。

そしてまたひとつ、自分の中で上記のことについて考えがまとまってきたので、今日も文章にしていこうと思います。
今回の調べ事で大体自分の頭の中の整理と方針が固まってきたので、これからは「発信すること」に力を割いていきたいと思っておりますが、まず今日は全体の話をしていきますね。

「人としての正しさ」に背く人々の中で、どうやって生きていくか

さて、最近のブログでは「他人を傷つける人」をはじめとする、人として「良くない道」を歩いている人の話を書いてきました。
こういった「他人を想えない人」というのはいつの時代にもいるものではありますが、このご時世「自分で良し悪しを判断できない人」というのが増えてきていると思います。

理由としては他の記事に書いているのですが、例えば「相手の顔を見なくても交流することができるコミュニケーションが発達すること」で「他人を想像する機会」が失われたり、単純に「物事を高速に処理することが価値ある」とされることで、「他人を想う余裕がないこと」が主な理由だと私は考えています。

さて、今まではそういった「他人を想えない人」の話をしてきましたが、今日はその中で「自分がどう生きるか」という話を書いていきたいと思います。

「日本の心」を忘れた日本人

最近のことに重きを置いて話を進めていきますが、「コロナ禍」という状況に今、社会が陥っていることによって、沢山の人がストレスを抱え「自制をすること」が出来ない人も増えてきました。
「これぐらいならいいよね」といって、緊急事態宣言下でも「他人も外に出ているから」と定常的に外に出かけている人を最近多く見かけることが、皆さんにもあるのではないでしょうか。

こういった「他人がやっているから…法律的にはギリギリセーフだから」という理由で「人の倫理を外れた行動をする人」というのは「コロナ禍」以前にもいましたが、今は顕著になってきていると思います。

しかしながら、こういった「法律的にはOKで、他人がやってるから自分もやろう」という行動原理は、もともと日本人が持っていたものなのでしょうか。
その答えをずっと私は探していたのですが、山口 周さんがお書きになられた「世界のエリートはなぜ『美意識』を鍛えるのか?」という本を読むことによってその答えを得ることができました。

この本は表題に「エリート」という言葉を使っていますが、実際は「今の日本人が失っている『日本の良さ』」について多く書かれており、誰でも関心が持てる内容になっていました。

実はこの本が出版されたのは2017年のことで、「コロナ禍」とは全く関係ない時期に出版されています。
しかしながら、その中に出てくる「日本人の姿」というのが、今の「コロナ禍」にある「ルールを守れない日本人」そのもので、何か予言でもしていたのでは?と感じる部分が多々あります。

とにかく、この本を読むことで「近年の日本人が失ってきたものが何か」というものを考えさせられましたし、「法律が許すから」、「他の人も(緊急事態宣言の要請などを)破っているから」という理由だけで自分の行動を自制できない人が、今の日本に多くいることを納得してしまいました。

是非とも一度手に取って読んでいただきたいと思うのですが、簡単に内容を伝えるのならば…「道徳」や「倫理観」を失い、「社会的ルール」だけを尊重し「自分の頭で考える習慣」を失った日本人というのは、世界的な競争力を失い、さらには「日本人の良さ」というのも失っていくのだと私は感じました。
過去の大きなニュースを例にしているので、非常にしっくりくる内容でしたよ(広告とかではないので、あしからず)。

さて話を今の日本に戻しますが、最近のニュースを見ていると、諸外国でのコロナ対策は大きな成果を上げているという報道が増えてきているように感じます。
特にイギリスでは死者数を0に抑え込むことができた、との話がここ数日で報道されていましたね。
それに比べ日本はまだまだ「コロナを気にせず生活をできる」という水準には程遠いもので、世界的にも対策は遅れてます。

この状況に対して「政府の対応が悪い」とか「自治体の先導が悪い」という人がいますが、これこそが「ルールのせいにして自分で判断をしなくなった日本人の現在」なのではないかと私は感じています。
このことから、日本人というのはもはや過去の「禅」であったり「武士道」といった日本古来からある精神論をベースとした生活習慣を失っているのではないかと私は考えるようになりました。

もちろん、「禅とか武士道だなんて、時代錯誤もいいところだ」と思う方も居られるかもしれませんが、それでも日本人には「世界の誇れるマインド」というのがあったはずでした。
以前、ノーベル平和賞を受賞したケニアのワンガリ・マータイさんが「MOTTAINAI」という「日本の独自思想」を褒めて世界に発信していましたが、日本にはそういった「日本独自の精神論の良さ」があったはずでした(「MOTTAINAI」は、主に「資源」の話ですが、それも「他の生物を想うこと」から来ているため、あながち遠い話ではないと思います)。

しかしながら、今の日本というのはそういった「思想」は失われてきているように感じます(ここを追求すると長くなるので、今回は「感じる」という表現にとどめます)。
その結果、コロナ対策は遅れ「自分だけが良いならいい=他人を想えない人」が増えてきているのだと感じるのです。

日本の心をベースにした、自制と他愛の心を取り戻そう

さて、他の記事でも書いていることなのですが「他人を想えない人」というのは、最終的には損をします。
ですが、だからといって「そのままだと損をするよ」といって他人が是正しよう思っても、「今、得をしているからこのままでいい」と忠告を拒否する人は何も変わりません。

今の時代、まだそういった「他人を想えない人」というのが「損をする」ということは問いただされることは少ないように感じますが、実際は様々な点で如実になってきていると私は感じています。
SNSで誹謗中傷した人が厳しく処罰されたり、「炎上マーケティング」という、わざと人に拒否されるようなことを大体的に行って注目を浴びようとする人が、話題性を通り越して業界から追い出されたりしています。
また、社会的地位がある人が問題のもみ消しをしようとしても消しきれず、後々になってすべてが明るみになって社会的非難を浴びる、という話も増えてきています。

長くなりましたが、一言でいえば今の日本は「本率的に許されるグレーゾーン」で、「他の人もやっているから」という理由で「倫理」や「道徳」を踏みにじる人が非常に多いのです。
しかし、今まで書いたようにこのままでは日本人は世界から淘汰され「他人を想えない人」は日本の社会からも淘汰されることになるでしょう。

だからこそ、僕たちは「自分の中で人として生きること」をきちんと確立して、心にしまっておかなければならないのです。
人の心の持ち様が行動に直結する今だからこそ、余計に「他を思いやること」を大切にする必要があるのです。

また別の記事で、どういった「価値を大切にすること」がなぜ重要なのか書いていきたいと思いますので、見かけたら是非ともお付き合いくださいませ。

コメント  

  1. […] 僕ら日本人が過去に捨ててきたことと、その中で守らないといけないこと […]

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