私が「伝える側」ではなく、「感じる側」として日常を記す
それが、カテゴリー:「すいこう いん まいまいんど」
どちらかというと、私は我慢強いほうだと思うけど、それでも何かやりたくないこととか、しんどいことがあると心がキュッとなる。
きっとそれは…物理的に心が傷んでいる訳ではないんだろうけど、心が何か…締め付けられたような感じになる。
特に、上手くいくか分からないような「不安」に押しつぶされそうなときとか…
そんなときは、このホームページで教えているように神様や見えない流れに祈るのだけど、それでも闇が消えないときだってある。
言い訳をするような感じになるけど…私も人間だから。
というか、人に教えていながらもまだまだ未熟なところがある存在だから。
だからこそ、すべての不安や恐れは拭い去ることはできない。
時に怒ることだってある。
上手くいかないことが続けば嘆くこともある。
それでも、やらなきゃいけないときは、ある。
ほら、生きることって自分と向かって、課題をクリアしていくことだから。
そんなとき、時々逆に幸せを感じることがある。
それは「幸せだな」と感じるというよりは、「幸せってこういうものだな」って認知する、みたいな感じ。
心の平穏があることっていうのは、本当に幸せなんだと思う。
自分が望むものがすべて手に入るわけでなくても、何事もなく暮らすことができる日々があるなら、それは幸せなんだなって。
自分を信じてくれる人がいたり。
自分を支えてくれる人がいたり。
自分を気にする人がいてくれること。
そういった、「生きていること」に対して賛同してくれたり応援してくれる存在がいることって…幸せなんじゃないかなって思う。
これは、「何気ない毎日に幸せを感じましょう」みたいな、強引に幸せを見つけようとすることではなくて。
何か「痛み」を伴った時に、癒やしてくれたり支えてくれる存在というのが愛しく、限りない存在であると「心から」感じることなんだよね。
単純な話にするなら、「そこにいていい」と言われることは、何にも代えがたい事だと思う。
自分が「いていいかどうか」なんて、自身で決めることだろうけど…でもそれができないときだってあるから。
私の場合だけかもしれないけど、そういった「言葉」をくれる人がいて、生物として生きていれば「それでよし」みたいに思っている。
もしそれ以上に望むことがあるのならば、そうやって私を支えてくれる人を幸せにしたい…近くにいたい…少しでも幸せを返したいということが浮かぶんだけどね。
なんていうか、暗く痛い毎日を過ごした経験があると、本当にシンプルな「自分が欲しい物」とか「自分を生かしてくれるもの」というものに気づけるのではないかと思う。
いや別にそれを知るために苦しい日々を過ごしてみて、みたいなことは言わないのだけれども。
それでも、泣いた毎日や生きることを捨てようと思ったことがあるときに、支えてくれたり救ってくれた言葉というのは、永遠に変わらない価値というか…輝きをもっているもので。
ずっと心に居続けてくれる。
その想いが「もうちょっと前に進んでみよう」という勇気をくれる。
何か綺麗事のように感じられるのかもしれないけど、そういったものが「幸せ」なのかなと思う。
普段、何気なく過ごしていることや、何気なく関わっている人が与えてくれるものが、今の自分を作り、明日に進もうとする一歩の源になるのだなって。
それは本当に些細な事で、単なる言葉でしかないのかもしれないけど。
それでも、あるとないとでは、全然違うものだと思う。
打っていて気づいた。
これ、V6の歌にあったやつだ。「ありがとうのうた」。
視線が合うそれだけで 声がするそれだけで
V6 ありがとうのうた より
今日を生きててよかったと心から思えるんだ
そうか。
もしかしたら、「感謝できる日」というのが「幸せ」なのかもしれない。
「それはほんとささいなこと」、僕は見つけられたかな。
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