
友人と話していた時のこと。
友人が非常に怒っており、話を聞いてみると。
「あまり仲の深くない人と席を共にする機会があったのだが、非常にその人が馬鹿げていたことをやっていた。それを私は罵倒していたのだが、別の同席していた人に注意されてしまった。馬鹿に馬鹿と言って何が悪いのか。どうして自分だけが怒られなきゃいけないのか」。
という話でした。
その時、私はなんとなく話を流してしまったのですが、どうしてこういった考え方になるのかなと後になって思いました。
そういえば、小学生のとき同じようなことを見た覚えがあるなと…
それは、お昼休みという長めの休憩が終わったときのこと。終了のチャイムが聞こえづらかったらしく、何人かの子供がそのまま校庭に残ってしまい、だいぶ遅れてから教室に入ってきました。
そのまま先生に彼らは怒られていたのですが、その理由に
「〜ちゃんがまだ校庭にいたので、私も遊んでしまいました」
「〜くんがサッカーをやめないので、僕も遊んでいました」
みたいなことを言っていたのを覚えております。
それを聞いた 先生はまた怒りました。
「チャイムが過ぎてから戻ってくるも悪いけど、人のせいにするのも悪い」と。
と、文章にすれば特にオチがないお話であるのですが、でも最近そういったことを行動原理にしている方が多いなと感じておりました。絶対的な価値観を持っているのではなく、他人の行動を基準にした価値観を持っている、という。
「〜がやっていたから、私もやっていいと思った」
「〜も同じようなことをやっていたのだから、私だけ怒られるのはおかしい」
「〜が悪いのだから、それぐらいは許されると思っていた」
といったものですね。
当然なのですけど、悪いものは悪いのです。悪いことを行う動機に同情することは仮にあったとしても、物事の価値は変わらない、という。そういったものが変わり始めてきているのでは、と最近危惧しております。
誰もが悪だと思われる存在ですら、きちんと裁かれる法があり、それ以上の制裁は求められないはずなのに自分の感情で悪を定め、罰を決めようとする。もしくは、自分の中で例外を定め、悪を正当化する。そこには絶対的な価値観などなく、各々が持つ、比較的な相対的価値観に支配されてしまっている。
ちょっと怖いなって思いますよね。
でも、そういったことをやっていけば、自分にもそういった相対的な価値観の押し付けが返ってきます。それは、かつての「敵討ち」あった日本と変わらないのかもしれません(少し大袈裟かもしれませんが)。お互いがお互いに、自分の 行動を正当化すれば、いずれ命を取り合うようなことにも成りかねない。それは当人だけではなく、周りを巻き込む形で。
最初に紹介したような方が、そういった大きな流れに巻き込まれなければいいなと思うのですが…中々に難しいものもあります。他を受け入れる余裕がないときは、そうなってしまうものなのかなと、少し悲しくなったのでした。
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