私が「伝える側」ではなく、「感じる側」として日常を記す
それが、カテゴリー:「すいこう いん まいまいんど」
以前、「環境が人を作るのではない」という記事を書いた。
今日書くのは、最近こういったことを改めて強く感じるなぁ、ということ。
いろんなグループに所属したり、いろんな地位や職業を持っている人に会ったり。
たくさんの出会いがある中で、本当にいろんな人がいるんだなと感じる日々。
でも、そういった…所謂肩書や代名詞になるものが、その人自身を定めるわけではないことを改めて実感する。
ストイックに体作りをするフィットネス業界の人が、すべて自分の価値を上げるためだけに自分を鍛えているわけではないし。
学歴が高いからといって、生きることについて精通しているわけでもない。
教養がある人がすべて、華やかな世界を生きてきたとは限らないし。
スピリチュアルを謳っている人がすべて、見えない世界を正確に把握しているわけでもない。
そりゃ、当然のことかもしれないけど。
でも、みんな最初に相手が何をしていて、どんな職業についていて、どんな結婚をしていて、どれだけのお金を持っているかを気にする。
そして、その人を推測する。
そんなことが多いのだな…と最近強く感じる。
そういった要素は人を定めるものではない。
だから、要素で他人に対してマウントを取ることは本当に意味がない。
大切なのは、その人自身がどういった人なのか、ということ。
どういった想いを持って、どういったことを行なってきたかということ。
最近、相手をきちんと見る人が少なくなってきていると思う。
上の話のような、わかりやすい…相手を示すものばかりを見ていて、本当に目の前にあるもの・いる人を見ない。
多分、この情報化社会のせいだと思うけど、「断言できること」ばかりに気を取られていて自分で考えることを放棄し始めてきているのだと思う。
Twitterとかで、何度も回ってくるリツイートにすぐに流されてしまったりとか。
大きな声で批判する声を吟味せず、「あの人が悪だと言っているから多分悪だ」みたいな考えで物事を決める人が結構いる。
別にそれでもいいのかもしれないけど、きっと損するのは自分だと思う。
批判した相手が正しかったり、「回れ右」で判断した相手が違う側面をもっていたときに、
「え?うそ。」
というのは自分で、誰もその後始末をしてくれるわけではないのだから。
もう一度、自分で考えて、自分で判断することを大切にしても欲しいと思う。
政治家の話やコロナの話、戦争の話を聞いていると、とても思う。
本当に悪いことなのか、本当にそれは他人に伝えないといけないことなのか。
もっといい方法があるとして、その方法は逆に失うものはないのか。
入ってくる情報を精査して、自分の考えまで消化させることが大切だと思う。
なんていうか、そういうシーンを見るようになってから。
本当にテレビやニュースをあんまり見ないようになった。
最低限の情報は入手するけど、人の意見や考えを変えることを目標にするコンテンツはできるだけ自分に入れないようにしているし、
人を不幸にしていることを笑いに変えるようなものは、絶対に触れないようにしている。
なぜなら。
そうじゃないと、本当に流される人間になってしまうし、人を見ないで傷つける人間になってしまう。
誰だって生きている。
そして、誰だって生きてきている。
そういう大切なことを忘れないようにすること…
それが今の時代に必要なんじゃないかなって。
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