「人を救おう」とするその手に覚悟はあるのかい?

すいこう いん まい まいんど

私が「伝える側」ではなく、「感じる側」として日常を記す
それが、カテゴリー:「すいこう いん まいまいんど」

話をする上で。物事を円満に終わらせた方がいいのは明確だ。

喧嘩だったら、両方が相手のことを想えるような形で終えるのが理想だし。
一方的に相手を悪者にするのは良くないことは分かる。

でも、それが。
「痛み」を感じている側が一方的に我慢をしろ…という話になるのは自分としては納得がいかない。
「悪いこと」は悪いというべきだし、そういった冷静さが。次に踏み出す一歩を導いてくれることがたくさんあるから。

ただ。

こういった文章は本当に慎重に書かないといけない。
その匙加減はケースバイケースだし…とにかくみんなが傷つかないようにするのは確かに必要なことだから。

だからこの文章を読んだ人にはお願いをしたい。
「誰がどれだけ悪い」という話をするときには、簡単には決めないでよく考えて欲しいということを。そういったことを考えてくれる「前提」で…この記事を読んで欲しいと思う。わがままで申し訳ない。

ただ、一つだけ覚えて欲しいことがあって。大切なのは「相手を想う気持ち」だってこと。
それだけ心に留めて読んで貰えたらこれ以上に幸せなことはない。

「人を救おう、助けよう」とするのには大きな責任が伴う。
生半端な気持ちで「人を支えよう」とか、「人の代わりに問題を解決しよう」とすることは、下手すれば“余計”に相手を傷つけることになるものだ。

でも、そういった事実を理解しないで、他人の人生に入ってくる人がいる。
そして最終的に「救うこと」や「問題を解決すること」ができなかったときにその人は次のようなことを言うのだ…
「私も頑張ったんだよ」って。

確かに。

そうやって「相手を想って」助けようとする行動は褒められるべきだし。私も素晴らしいことだと思う。
でも、そのときに伝えなきゃいけないことは「私も頑張ったんだよ」ではなく「力になれなくて、ごめん」だと思う。

「君のことを助けたいと思う。どうにかするよ」という言葉に、人は期待を抱く。
「ああ、この人は味方になってくれるんだな」とちょっとだけ救われた気持ちになる。

でも、それが上手くいかなかったからといって。
いきなり「私の気持ちも分かって。」と言われても…安心した気持ちは崩れるだけで、絶望さえすると思う。

だから…
相手に対して「救うよ」とか「助けるよ」といったのなら、やれることをやり切らなければいけないと思う…私はね。
それぐらい…それらの言葉には「強い希望」が溢れているのだ。

まぁ、百歩譲ってやりきれないということはあると思う。
でも、その時に「自己保身」に走るのは、約束した相手に「ああ、結局『あなたの力になりたい』というのは、私のためじゃなく自分のための言葉だったのね」と思わせるだけだと思う。

それは、信頼をさせた分だけ、余計に傷つけることだと思う…悲しませることだと思う。

だから。

「救う」とか「助ける」という言葉には覚悟がいる。私はそう思う。
そういった覚悟が持てないのであれば、伝えるべき言葉ではないと思う。

そして、それができなかったときに伝えるべき言葉は…「私も頑張ったんだ」じゃなくて、「ごめんなさい」じゃないかなって…私は思うんだよ。

※本文中の体験談には、フィクション要素が含まれることがあります。
※これは特定の誰かを責めたり、断定をしたりすることを避けるためです。

先生ちょっと聞いて

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彗光(すいこう)

早稲田大学人間科学部卒。
在学中に「貧困」など、人への助力について学ぶ。
卒業後、ビジネスで困っている人を助けるために、提案営業として就職。
その後、ビジネスを超えて人の力になりたいと思い、独立。
「空のみちしるべ」を立ち上げる。

並行して「なんとなく、人の知りえないことが分かる」というぼやっとした力を、自分で学び解析し安定して扱う方法を解明。
現在は人生相談に乗りながら、霊能力や占いについての指導を行っている。

霊視経験 約20年。
参考にした著書 40冊以上(エスター・ヒックス、ハリー・エドワーズ、バーバラ・ブレナン、ベティ・シャイン、トーシャ・シルバーなど)

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