仏教から考える、「理想の自分」になれない時について。

こんばんは、彗光でございます。
前回の記事をしたためてから、何人かの方に励ましてもらい、今に至っている形でございます。

いやあ、誠に忍びないと思っております…気落ちしやすい性格、誠に申し訳ございません。
少しずつ改善していきたいと思います。

そんな自分自身をフォローするわけではありませんが、
今日は「理想を心がけていても、うまくいかない時」というテーマで記していこうかと思います。


仏教でもキリスト教でも…どんな宗教においても、人々が答えを求める内容の一つに、
「人はどうあるのがよいのか」
というものがあります。

例えば、仏教の教えの中には「三毒」と言うものがあり、
「『怒り、過度な欲求、愚かさ』の3つが人を悪くする」と伝えられており、控えるべきだと考えられております。

こういった「人がどうあるべきか」という理想像に関して、クローズアップされることは今でも非常に多いのですが、
逆に理想を満たすことができない…つまり「こうあるべきだ」という「理想の行い」ができない時に、
どうすれば良いかが語られることは少ないようです。

しかしながら、
仏教・キリスト教を始めたとした各宗教の教えには、そういった“うまくいかないとき”に「どうあるべきか」がありますので、
是非とも「理想の姿」と一緒に覚えておきたいものです。


「仏教」に注目して観てみますと、仏教には「無常」という言葉があります。
これは、「どんなものであれ、全てのものは一つとして、同じ状態でいることはない」ということを示しています。
つまり、全ての生物・物事・物体は、「良い状態」「悪い状態」を行き来するものだ、ということを示しているのです。

ですので、仏教においては「三毒」という、「人を悪くするもの」を定義している一方で、
「人は変化するもの」として説かれている訳なんですね。

「目指すところがある一方、人がいつも完璧でいることはできない」ということを仏教では教えているのです。

しかしながら巷には、
「日頃は、あたかも神様のごとく振る舞うことが良い」と書かれているものが沢山溢れています。

上記にも書きましたが、「人間」というものはそもそも不完全なもので、“より良きもの”になるために、この世に生まれでた訳なのです。

つまり、「理想とするところを覚えておく」という目的で、
「様々な教え」や「宗教の経典」を見る事はとても素晴らしいことだと思いますが、
私たちはまだ「修行の身」である、という事を忘れてはいけない、という訳なのです。

他人に対して怒りを持ったりとか、何かを恨めしく思ったりとか。
そういった事は、しょうがない部分もあるというのが現実なのです。

自分が何かの理想に対して歩む事は素晴らしいことだと思います。
紆余曲折してうまくいかないこともあれば、思わぬきっかけで大きな前進をする…
そういった日々を暮らす事は非常に素晴らしいことだと思います。

ただ、他人がそういった理想の生き方というものを、自分以外の誰かに強制させるべきではありません
人間は不完全なもの、なのですから。

人というのは、自分のペースで学び、自分のペースで成長していくことが重要です。
ですので、理想を説くことがあっても、押し付けてはならないのです。

理想を高く掲げ、歩くことは大切なことです。
でも、辿り着けないからこそ「理想」であることを忘れてはなりません。
上手くできないからといって、自分を責めすぎないように。

何事もゆっくりいきましょう!

コメント お気軽にどうぞ

タイトルとURLをコピーしました