
スピリチュアルな立場から、時事問題、ちょっとした出来事を読み解く記事…
それが、カテゴリー:「毎日のみちしるべ」
こんにちは、彗光でございます。
今日は、多くの方が聞いたことがある言葉…「誰だって幸せになれる」という言葉について、話をしていきたいと思います。
今回の話は複雑な話ですが、もしよろしかったらお付き合いいただけたら幸いです。
分からないことがあったら、コメントなどで聞いてくださいね。
突然ですが、日々生きている中で「こんなに悪いことをやっているのに、この人がのうのうと生きているのが許せない」という感情を持ったことはありませんか。
そして、他人を許せない感情を他人に相談すると「どうせ巡り巡って、悪いことをした人間は不幸せになるんだから、これ以上関わらなくていいよ」と言われたこと、ございませんか。
まるで「誰でも知っているスピリチュアルの教え」であったり「宗教の教え」で説かれているような…
どこに根拠があるか分からない「悪いことをしたら、その人はいつか巡り巡って悪い運命を迎える」話。
そういったものを聞いたことがある人は 、多くいらっしゃると思います。
しかしその一方で、「 スピリチュアル」や「宗教」の話の中で、以下のような話を聞いたこともあると思います。
「誰だって幸せになれる。人というのは平等である」という話も。
ここら辺がごちゃごちゃになると、本当によくわからなくなりますよね。
「結局人というのは、みんな幸せになるものなのか。悪いことをして、誰にもバレなければ免れるものなのか」
今日はそこら辺の話をできるだけ簡潔にしていきます。
そもそも今日の文章というのは、以下のような人に是非とも読んでほしい、と思って書いています。
「他人に酷い扱いをされた。その人によって人生を狂わされた。できれば復讐をしたい。自分が不幸なのに、相手が幸せそうに生きているのが気に食わない。」
他人を恨むことが良くないと分かっていても、誰だって上記のようなことを考えてしまうことはありますよね。
正直なところ、私だってそういった感情を持ったことがあります。自分が報われない時は、悲しみに負けてしまうこともありますよね。
さて、本題に入っていきましょう。
「誰だって幸せになることができる。人間は皆平等である」という話の意味
この文章のすごく大切な所というのは「できる」という可能性を指しているという点です。
つまり、この文章が言いたいことというのは、人間は誰だって幸せになる「可能性がある」ということであり、
そういった「チャンス」を各々持っているという意味では「平等である」ということです。
仏教の有名なお経の中に「法華経」というものがあります。
よくこのお経を例にして、「人間誰しもが幸せになれる」ということを説明なさる方がいますが、
実際に法華経を読んでみれば「同じ量の功徳を積んで幸せになれる人と幸せになれない人がいる」という事実に気づくと思います。
つまり、「誰だって幸せになることができる」という本当の意味は、
「幸せを望めば誰もが、“各々の人に必要とされる功徳を積むことによって”、幸せになる権利を持っている」
というものなんです。
細かく説明すれば
「人によって幸せになるための功徳の量は違う。それでも、幸せを望むのであれば誰だって最終的には、幸せになることができる。
そういった機会を与えられていることが、平等だ」
ということになります。
皆さんが最初にイメージしていた通りだったでしょうか。
「悪いことをしたら、その人はいつか巡り巡って悪い運命を迎える」という言葉の意味
「悪いことをしたら、その人はいつか巡り巡って悪い運命を迎える」という話は、様々な機会・書籍で説明されておりますが、
最近だと美輪明宏さんが説明をなさっている「正負の法則」というものが一番分かりやすいと私は思っています。
これは簡単な話で「どんなものも、良い面と悪い面を持っており。いつもバランスが取れている」というものです。
「良いことを相手に明け渡せば、良いことが自分に返ってくる。悪いことを相手に明け渡せば、悪いものが自分に返ってくる。そうやって、良い面と悪い面は、足し引き0になるようになっている」
というものなんですね。
ナポレオン・ヒルさんの「代償の法則」でも同じような事が説明されていますし、「幸せになるためには、労力が必要(幸せのプラスの面と、相殺される労力というマイナスの面が必要)」という話はデール・カーネギーさんを始め、多くの人に語られています。
この法則というのは、どの人にも平等に施行される法則…というより、この世の中全てに適用される法則として説明されていることが多く、「誰でも、どの瞬間でも良い事と悪い事はバランスが取られるように世界は動いていく」と言われております。
ここで大切なことは、「バランスが取られるように動いていく」という表現です。「いつも」バランスが取れているという訳ではなく「良い面と悪い面は、同じ量になるように、物事が“動いていく”」ということなんです。つまり、バランスを保とうとする動きには「時間差」があるのですね。
上記二つを踏まえて…あなたが今誰かを恨んでいるのであれば
上記二つを踏まえて考えていくと、人間が悪いことをした時には以下のようなことが起こることがわかります。
「人は悪いことをすると、そのぶんだけ自分に悪いことが訪れる。そして、幸せになるためには自分に必要とされている功徳を重ねる必要がある」
つまりは、悪いことをすれば悪いことをするほど、人間というのは幸せから遠ざかっていくもので、むしろ不幸が差し迫ってくるものと言えるのです。
だから、私たちが受けた不幸に対して「報復」をしなくても、悪いことをしてきた人はその分だけの「報い」を受けるので、特段私たちが何かをする必要はないということになるのです。
さらに言うのであれば、「報復」というものは、どういった理由であれ他人から見れば「悪いこと」なのです。他人に「報復」を行えば、「報復」を行った自分が「正負の法則」より不幸になってしまいます。
だから、何か嫌な被害を受けたら何もしないのがいいんです。相手に憂さ晴らしをしても、その分だけ自分が不幸になってしまうだけなのですから。
でも、気持ちは分かるんです。ですので、「何を意図するか」を考えましょう。
「自分が受けた不幸に対して、報復をすべきではない」という話をお届けしました。
でも、それでもいつ相手が「報い」を受けるのか…本当に自分だけが損をすることはないのか…不安になったり苛つくことはありますよね。
分かります。私も、そう思ってしまう時があります、時々。
そんな時には「私怨」として何か相手に行うのではなく、自分が受けた被害へ抗う「権利」として動くようにすればいいと思います。
あくまで「自分が正当であることを主張」すればいいのだと思います。公の機関に頼ったり、友人に話をしたり。「あくまで」自分の感情を大切にしたり、自分の権利を主張するために行うようにし「他人の損害を大きくするために行動しないようにする」のが良いかと思います。
「他人に報復すること」を肯定はしませんが、「他人が行った悪事」も肯定しない、ということです。だから、他人が悪事に謝罪をしてきたら許すべきだと思いますが、受けた被害に「泣きをみろ」というつもりもありません。
ただ、一つだけ補足させて欲しいことがあります。「正負の法則」というのは、「損」に対しても働くものなので「損をすれば失った分だけ、返ってくる」ものなのです。だから、「失ったものを必死に取り返そう」とする必要はありません。「自分の正しさ」を「望むのであれば」主張するのが良いかと思います。
とにかく、大切なのは「悪事を行うような他人によって、これ以上私達が不幸にならないこと」です。それは「正負の法則」の側面で気をつける必要がありますし、「損をしない」という側面でも考えていきたいものです。
今回はちょっと深い話題についてお話しました。あまり考えたくない話題なのですが、強い怒りに駆られると、これだけしか考えられなくなってしまいますよね…
今誰かに対して、そういった憎悪を抱いてしまっている方の、少しでも参考になれば良いかと思います。
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